やるべきことをつくらない

つい先日
出社したはいいものの、今日やるべき仕事がなかった。

溜めてる仕事もない。向こう1週間先の仕事も終わらせている。
いつもなら1〜2か月先の仕事を見越した準備などを考えて
やるべき仕事をつくるんだけど
なぜだかそうしたくなかった。。。

仕方がないので本でも読もうかと思ったが
目の前で社員さんが仕事してるのに
終日、本を読もうなんて気にもなれない。

じゃあ誰かに会いに行こうか?
どこか行きたいところに行こうか?
思案してみるけどそれほど会いたい人も行きたい場所もない。

仕方がないので
やっぱり何か仕事を作ろうかな?と思ったら
猛烈に「したくないっ!!」ってなった。

そんでもって
「大してそうしたくなくてもいいから、
とにかく何でもいいから好きなことしかしたくない」
という衝動がやってきたので
びっくりして
あきらめて
朝から仕事をサボタージュすることにした。

行き先もあまり決まらないまま電車に乗り
先日誰かがFBにUPしてた日帰り温泉を調べたら
今乗っている電車が送迎バスの時刻表とピッタリだったので
そこに向かうことにした。

駅につき
ロータリーで会社で食べるはずだった弁当をたべ
森の中の温泉で思いに耽りながら風呂に浸かり
カフェで持参した本を読み
結局会社には帰らないまま一日を終えた。

翌朝
会社に向かう道すがら
昨日のことは朝礼で社員さんに何て話そう?と思案して
僕に何が起こったのか考えた。

僕は25歳で家業の手伝いを始めた。
それは家業が危機にあった両親を助けるという目的があり
やるべき理由があって始めたことだった。

危機から始まっただけに財務体質にはこだわりがあり
未熟な自分なりの信念は
やるべきことをやることが経営であるということ
財務体質が悪くなるのは
やるべきことをやっていないか
やるべきことが間違っている
そう思ってやってきて
実際これまで赤字は一度だけ
財務体質の強い会社にもなった。

やるべきことかどうかを判断基準の最優先とし
好きなことでも嫌いなことでもやるべきことならやる
出来ることでも出来ないことでもやるべきことならやる
当たり前のようにそうしてきた。
でもいつしか気づかぬうちに
やるべきことは何か?しか考えられなくなっていたのかもしれない。

昨年、母が亡くなり
父は別の会社を経営していて後継者もいる。
10か月に及んだ母の相続協議が
今月初めに終わった後は
なんだか凄く疲れた感覚になった。
このサボタージュも
もしかしたら疲れが出たのかもな?
とも思ったが違う
25歳の時からずっと根底にあった
会社をやるべき理由が正式に終わったということだったんだ。
顧客のためとか社員のためとか社会のためとか考えたこともある
でもそれとは別に根底にずっと流れていた
両親を助けるためというやるべき理由が
今回初めて終わった感覚になったと分かった。

そして
何よりも最優先にしてきた
やるべきことが終わってみると
やるべきことを作り出してまでやりたくない!
という衝動が湧き上がってきたんだと思う。
両親のため
世のため人のため
でも次はまず
自分のためから始めることなんだよな
衝動はそう訴えている気がする。

ずっと心理のことを勉強してきて
「べき、ねば」を手放すことをしてきたのに
経営のことになると「べき、ねば」が手放せないでいたのは
18年前のあの時の「べき、ねば」から始まっていたなんて
思いもしなかった。
不安で見えなくなっていたのもあるけど
それほど無意識になるほど当たり前に純粋に
両親を助けたいと思っていたんだなぁ。

やるべきことをやるが経営である
という信念は変わらない
でもやるべきことを作り出してまでやることはやめよう。
そしてその代わりに好きなことをやってみよう。

そう思ったんだ
と朝礼でそのまま話してみた
そしたら社員さんが
「それでいいじゃないですか」と笑顔で応えた。

そうか、それでいいのか。。。

やるべきことをやることで
危機を回避しているうちに
やるべきことを作り出すようになった
一体それは何の危機を回避するためだったんだろう?
サボタージュしたのに
いいじゃないですかって
どうして笑顔だったんだろう

まだ不安は拭えない
でも信頼してみてもいい
たとえ失敗することになるかもしれなくても
この信頼の行く末を感じてみたい
不安に打つ手を増やすよりも
信頼するものを増やしていきたい
いま感じていることはそういうことなんだと思う。
始まりがあれば終わりがあるように
終わりが始まりでもある
今度の始まりは
信じることから始まる気がしている。

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