悔いと願い

今日は母の命日。

手術に向かうベッドの上で、苦痛に耐えながら
「やっとあなたのことが分かったの、ごめんね。本当に愛してるの」
という別れ際のような表情の母の言葉に
それでも心が動かず受け入れられない自分を感じながら
でもせめて悔いが残らないように
「意固地で素直になれなくてごめんね。愛してるよ」
と形だけでも振り絞って伝えた三日後に亡くなって、早1年が過ぎた。

言葉は形を作れても、表情は誤魔化せない
最後まで受け入れられなかった自分を
悔いる気持ちと共に過ごしてきて
最近やっと別の見方ができるようなってきた。

僕の心が動かなかったということは
僕にとっては互いに心が通じ合えなかったというのが事実で
そう思うと愛されたいのに受け取れなったという
母に対する不満や恨みのようなものが確かにあり
同時にそんな思いが消えなかったことを悔いている。

でも亡くなって時間が経ったこともあり
僕の思いだけでなく母にとってはどんな最期だったのだろうと
母の思いによせて考えることができるようになってくると
僕の形だけの言葉と表情をみた母にとっても
やはり互いに心が通じ合えなかったというのが最後の事実だったとしたら
母は愛したいのに与えられなかったことを悔いてるんじゃないだろうか。
そしてその悔いをもって生を終えるとしたら
それは受け取らない僕への不満よりも
母自身への悔いとして感じているんじゃないだろうか
そう思えてきて、
そしたら母の悔いる苦しみに共感できるようになった。

境遇への苦しみはその人にしか分からない
でも願いを生きれない自分自身への苦しみは
きっと皆同じなんじゃないだろうか

母の苦しみに共感できたら
心と心が通じ合えなかったという共通の事実への悔いが
心と心を通じ合わせたかったという共通の願いだったと
感じられるようになった。
そして事実への悔いと願いが
同じことを反対側からみているのだと思えて
どうせ同じなら事実への悔いよりも願いだったことにしようと思った。
そしたら何かのエネルギーが軽くなった感じがした。
それを今日は墓前に報告してきた。

人は悔いながら願いを思い出す
でも願いは人に届けるものだから
願ったよう生きれるかは相手次第で悔いることにもなる
それは人に届けるのをやめることに繋がり
やがて願いを祈りにして自分で祈りを生きた時
祈りを生きる同志として人と出会い直す
そういうことかもしれない。
一年という時間をかけて思ったことを
文章にして残しておく。

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