終わってみないと分からないこと

事業を手放して2か月ほど経って
ようやく顧みることが出来つつある

一番の気づきは
社会からも家族からもドロップアウトした人ばかりが集まった会社で
「社員に自らの人生を取り戻してほしい」と奮闘してきたのに
その願いは叶わずに事業を終えたと思っていたことが
最後の社員面談で会社が用意した道に進むのではなく
自ら別の道を探してきて選択していった時に
僕自身が自らの人生を取り戻す選択をしたことが
社員に自らの人生を取り戻すことになったのだ
ということだったと思う

つまり
自らの願いを自ら生きることが
世界への願いを叶えることになる
というのが智慧なんだということ

終わってみないと分からないことがある

ネイティブアメリカンには
“生まれる”→“経験する”→“顧みる”→“智慧にする”と
人生は進んでいくという教えがあるらしい

でも僕らの現代社会では
いくら歳を重ねても経験するフェーズのままで
顧みることも智慧にすることもない
老人たちが沢山いるように感じる
まるで不老不死を信じているかのように

その個人の意識はそのまま社会に反映されていて
企業は成長し続けることを前提として
見えない誰かの為と偽って生産を続け
見えない誰かを苦しめていることなど
顧みることもない

終わることが怖すぎて
想像することすらタブーにしてる限り
顧みることも智慧にすることもないし
智慧にすることができない限り
今の現代社会で取り扱えなくなっている問いに
応えることはできないのだと思う
『いかなる問題もそれをつくりだした同じ意識によって解決することはできない』
とアインシュタインが言ったように

終わることで顧みて智慧となり
その智慧が次の新しい次元の生へと繋がる
この死と再生を体験することが変容であり
自我の死と再生を繰り返して
意識が変容していく

死を恐れ成長し続けるフェーズから
死と再生という変容をし続けていくフェーズへ

「本当の仕事ワークショップ」
「コンセプティング」
「Co-beingダイアログ」
その他すべての僕の活動は
サービスとしてはそれぞれ別ではあるけど
その根底に置いている僕の仕事は
「死と再生」「変容し続ける意識」なんだなぁ
最近そう思っている

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